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園長の独り言

園だよりに載せている「園長の独り言」です。
園長の園児に対する思い等綴っていますのでぜひご一読下さい。



平成29年度

(平成29年度10月園だより)

今年も暑かった。肌を刺す夏が去(い)った。稲妻一閃(せん)が闇を袈裟に切る。一陣の雨が夜の静を縦に揃(そろ)える。夏の烈が終る。暑の酷を過去形にする。一閃や一ト雨が秋への序曲である。鎮(しず)まった日暮れ時、一抹の淋しさを覚える。“さよなら”の一ト言が余りに短い。

一方、驚かされた夏でもあった。或る午(ひる)下がりの夏の盛り、子供達が運動場を走っている。それも淡天下の2周である、更に驚いたのは、走った後、堰(せき)を切った如うに、子等の喜々とした突進である。総合遊具、砂場、だんご虫にまで、それぞれに、目標に走り寄る。興味に焦点した彼等の前に夏の烈も疲れも範疇に無い。

   砂鉄が磁石に吸い寄せられるが如くに暑を蹴って見事な縦を造(つく)る。呼吸だけで汗が散る、夏その渦中に、である。其処には担任の指導角度の綿密な計算と潔(いさぎよ)いバランスや自信の程、が窺(うかが)える。

真夏に挑んだ児等の逞(たくま)しさが眩(まぶ)しかった夏、であった。


(平成29年度5月園だより)

 見送りの母と門で別れ、階段迄の78mを小走りする。右足の一歩でカバンも右に揺れる。次の左は僅かだが重心が左に移る。まだ、真っ直ぐ歩けない。その分、背中でカバンが踊るのが楽しい。2才に成った許(ばか)りである。体より大きく見えるカバンには国の将来も詰っている。人生の未来も“今か!と息を潜(ひそ)めている。子分の如うに従え、大事な箸も忘れては居ない。ハンカチは母の優しさ、出席ノートは毎日を約束した法律だ。全てが在る。友や仲間と今日創(つく)った青春も帰りにはその隙間(すきま)にねじ込む。今日の出来事だ!!とNHKみたいに母に報告するのだ。自慢と呼吸が動悸している。“そうかい、頑ん張っとったんかいね!!とそう言ってもらえる父とハイタッチしたいのだ。”今日も一日人生をやって来た!!“…と未だ2才だからそうは言わない。しかし私にはそう言っている様に見える。

毎日の呼吸が子供達の人生との渡り合う真剣勝負なのである。其処に意識は無い、無意識の無限が横に在る。




平成28年度

(平成28年度10月園だより)


年長のクラスで昼(食)を共にした。

食べる早さ競うのは今も昔も同じ、それもほぼ男たち。「食べるの早いの誰?」と聞く私。「K君」と児童の多く(大半が女児)が指さす。指(さ)されたK君ニコリとしない。流石(さすが)食べるのが速い。箸(ハシ)を机上に置く音を誰にも(彼より)先に“ヒット”(音)させない。食後の食器を置きに行く5mを誰にも先に“ラン”(走ら)させない。「ノーヒットノーラン」今日も完全試合だ、と言わんばかりの早技である。食前に「残さず(ご飯を)、よく噛んで」と食事マナーを皆で歌う。「食後の食器置く5m先の先陣争いが胃の消化に成るではないか」と思うのか、余り噛んどる様子は無い。「見せる背中が男の意地」とでも言うのか、振り返える顔もニコリとさせぬ、と言うより、慣れているのかごく自然な顔だ。翻(ひるがえ)せば、退(ひ)いて残す危険に吾を晒(さら)す、粋(いき)に見せねばならぬ男の引き算がある。というのだろう。

解る気がする。“負けるな、頑張れ、立派な努力だ、又食事しよう。意地で見せる男の背中、又見に行くけんネ。”


(平成28年度夏休み園だより)


 年長と年中が湊の城慶寺を訪(たづ)ねた。座して禅と向き合った。焼香の儀も習い、般若心経も和尚(おしょう)さんに続き3度唱(とな)えた。難しい漢字に真剣な障害走を子供たちはやった。木魚(もくぎょ)も軌道修正してくれた。参禅もこれで
2度目となる。“心を無にして下さい。空(から)にすることです。”と一度目の時教わった。

座して己(おのれ)を鎮(しづ)める、鎮った大気と同じ髙さに座る。“身も心も洗われる”という、何だか体にも良さそうではないか、というのが始まった動機である。目を閉じて観る世界が在る、閉じて覚醒せよ、という。黙して通ずる言葉が有る、座して心を開け、という。無にして?(つな)ぐ言葉が有る。己(おのれ)と語れ、という。空にして捕(つかま)える“まこと(真理)が在る。それが禅である。子供の一人が言った。“園長先生、眼え閉じたらなんも見えんかったヨ”と。“見える訳がない”と言いたいのである。

和尚さんの説法を前におそれ(畏れ)を知らぬ哲学に鎧(よろい)も迷いも要らぬ。振り返りたくなる様なニクイことを言うではないか。しかし、言われてみれば無()ならば洗うに濡れるものも無い。それでも何処(どこ)か洗われる様な気がする。そんな気がしないでもないのだ。しかしそれで良い、気の所為(せい)かも知れぬ。心が洗われる、という事がそういう事なのである。お寺から出て来た児等の顔が又、逞しく見えて来る。何故か帰路、一人私はニヤついていた、ノデス。



(平成28年度6月園だより)

子供は戯(じゃ)れ合うのがこの上なく楽しい。チョッカイした相手が反応する。その縺(もつ)れが求める醍醐味である。チョッカイされる相手も今が遅しと焦()がれ待つ。楽しむの合言葉が戯(じゃ)れ合うに等分される。担任を怒らせるのも友との、この合言葉の延長線上に在る。

“何()うしてそうするの。止めなさい。この子はモォーッ!!”と。このモォーッは子供にとり魅力有る安定剤である。担任の降参にも似た微妙なり言葉“モォーッ”に勝利の快感さえ響くのである。その続きに“知らんけんネッ”の突き放し宣言も言外の“君達を見放したりしない”との母性本能を既に読み盗()っているのである。母から生れた分身だ、母性の謎解きにカギなど要らぬ。注(そそ)がれる視線は他人にでは無い、全ての愛情が自分へのものだと子供は酔う。

意識は無いが世間が私に合わせに来る。それが反抗期だ、と言わんばかりである。しかしそうではない。その全てを識()っての母や担任の母性本能だ、何(いず)れ知る時が来る。と座視する余裕を何とか見せる。

我が愛(いと)しき爆発分子の魅力達よ、君達は虎岳の偉大から出()でて虎岳よりも偉大になる。師(担任)は言う。どんとかかってらっしゃい!!と。


(平成28年度5月園だより)


 家族という最も親密な核より、100を超える見知らぬ他人との接点の連続が生活の毎日である。

 驚く子も驚かぬ子も等しく新入園児は挑む世界に希望、期待、憧れと共に戸惑いや不安の多少を抱いている。しかし子供は好奇心の塊(かたまり)である。柔軟な発想、旺盛な探究心、臨機応変の適応力、そして溢(あふ)れる若さ、何れの点に於いても大人の想像を上廻る。自然な笑顔が戻って来るに左程の時間は掛からない。教育とは子供を尊敬すると書に言う、幼児教育の原点は幼稚園の教育や環境と大きく重なる。健やかな成長や心身の揺るがぬ基礎や人間の基礎が培(つちか)われる創造空間が虎岳である為にも教職員一同一つになってお子様の大切な成長期をお預かりしたいと思います。輝ける新しい若衆の皆さん“ようこそ虎岳へ!”


平成27年度


(平成27年度1月)


強いと思っていた自分が迷った。

弱いと思っていた自分が立ち止まる強さを知った。

涙で辛さを消した。その涙も笑いで拭いた。無い物を自分で探した。

見えない物も沢山あった。しかし、“皆んなと居る”ことがよく見えた。過ぎた一年は疾(はや)い。観音さんにも毎日挨拶した。意識はないが感謝である。感謝は神(仏)との会話である。

この一年大禍無き今が在るを師走残照に私も感謝した。

新しい年が来る。天は“ヨッシャ”と光で皆んなを眩しく輝かせる。

今年も遅れない。休んじゃダメ。

輝く諸君を天は大好き。それが虎岳の変わらぬ呼吸です。


(平成27年度12月)


 マラソンが始まった。昨年の記事が出て来た、つまりはこうだ。負けず嫌いの担任が“勝負に情は無用”と、ゴボウ抜きして児等の前に出る。子(教え子)は親(担任)に似る。過ぎた反抗期とて勝つ為なら何時でも出せる。すると年中が黙っていない。反抗期まっしぐらの渦中の者とて少なくない。ゴネて親と世間、黙らせたのはついこの間、鮮度じゃ年長を凌ぐ。其処へ“体重が敵”とこちらの担任も季節外れの反抗期引っ張り出して“子とて先頭は譲らぬ”と。この時、子等は美の前には愛憎も紙一重(ひとえ)の凄(すさ)まじさを識(し)る。寒のマラソンは反抗期総出の修羅場である。火の点(つ)いた心が寒を切る。風を切る。とりわけ園長は息を切る。それじゃ年少の若衆に顔向け出来ぬ。なら私も反抗期ヤルッ、今しか無い!!と啖呵(たんか)を切った。が如何んせん、足がもつれる。・・・(長いからではない)そんな中、年長のドベ(後から)2(番目)の女児、悠然とそれも笑い乍らゴール。世を無視出来る年齢ではない。がその雄姿に園長も見惚(ほ)れる達観の域。反抗期を捌(さば)いた技の最高を女児は見せた。自然拍手が湧く。人生の縮図が在る。

 見事、子に教えられる。立派な反抗期は美しい修羅場を創(つく)る。今年も美に挑む担任達が児等の反抗期に胸を貸す。そんな担任の意地と健気(けなげ)が子等はとても好きなのだ。

 朝のコーヒーが不味(まず)い訳がない、私には寒の一コマが有る。


(平成27年度9月)


 水は子等を透明にする。
(くるぶし)がつかる水溜り一つで自分を忘れる。見つけると飛び込んで水面を踏む。只管(ひたすら)に踏む。足元から水が飛ぶ、飛び散る飛沫(しぶき)がはしゃぐ心に重なるのか?

 足裏の逃げ残る水の抵抗が未知との遭遇なのか?何れの一つでも無い。それ等全てが心を掻き立てる。児等の精が目醒める。心が奪われる。無心となる。止ってはいけない程に本能的である。発見だが、求める答ではない。姿までが無心になっている。

 ずっと見とれていた私、“その泥だらけの服、見たらおっ母さん気絶するゾヨ”と、止めさすつもりの言葉が裏目に出た。“その通り”とばかり余計にはしゃぐ、火に油だ。“園長先生もやろッ”ちゅうて誘うてでもくれたら見境いなく私もやったであろう。

 心残りと夏が去(ゆ)く。



(平成27年度7月)

歌で朝が始まる。気合まがいの雄叫(おたけ)びに似た一人か二人の猛者(もさ)が毎年居る。邪魔だと言わんばかりにリズムは無視、ヤケクソにも聞こえる。しかし歌っているのだ。神聖な程に必死である。忍び寄って観た。自らに自信を繋いだ面構えに疑いを()れぬ。我が声に勝る危険は有るか!と言わんばかりだ。さながら戦場の勇者である。(まわ)りを睥睨(へいげい)する余裕さえ有る。自信は元気を創る。他をも元気にさせる。近所まで届いたか、聞こえたおばあさん“元気になる”と喜んで下さった。(ヤケクソだとは言わない、出来た方である。)秩序ある不協和音でクラスに支障は無い。

 外は梅雨でも内は湿気も危険も無い。私も負けてはおれぬ。コーヒーの砂糖少な目にする勇気出すッ。友よ猛者よ朝を有難となっ。



(平成27年度5月)

 母の胎動に呼吸して10()(つき)10(とお)()、涙と産ぶ声で母から別れた。4月の入園が母の手からの2度目の別れの涙である。ママーと入園の門から泣き声が走る。家に帰ると子は泣き自分を置いて去る母に何故手を放すと叫ぶ。子の背に拡がる共同生活という未知数が余りに大きい。担任が抱いて教室迄の距離を縮める。それだけでは足りぬ。泣かぬ第1歩迄に1週間、或いは10日、長くは一ト月を要する子も居る。

 “母子の絆が強い程子供は泣きます”と或る担任は私を気付かせる。成る程、助けを求める子の一ト声は新しい環境(共同生活)に向う子の母との別れの雄叫びとも、母親自身予感するのであろうか。一抹の不安は親子共に有る。

 喜怒哀楽を教える涙が春夏秋冬の四季をも子の成長に刻む。一方、子達の新たな環境で胎動し始める慶びは友、仲間、春迄が祝福するのである。

 新しい友よ、有難う、ようこそ虎岳へ!


平成26年度

(平成26年度12月)


城攻めをした。吹上城6Km往復の虎岳恒例の遠足である。帰路3分の2を過ぎた頃“歩けない”と女児5歳が涙で止った。担任に“もう直ぐだからネ”と諭
(さと)され私と最後尾より全体を追う。少し歩いては、咳き上げ涙で止まる。止めても溢れる、感情を涙と呻き声で堰き止めているのだ。横目で盗み見た。目が会えば女児は声で泣く、微妙な一瞬である。視線一つがバランスを崩す。何も出来ない。“頑ん張れるよネ”の教師のひと言は5歳に成った許りには、耐えるに余りに大き過ぎる。

 年中の仲間が、時折り振り返ってくれる優しさが女児の手を引く、“ついて来るんだヨ”と年長の背中が言葉を送る。頑ん張る自分を落ちる涙が教える。自分で5歳に挑んでいる。

 頑ん張れ5歳。6歳になったら、給食なんぼおかわりしてもエエよ。そんな自虐しか園長は言えぬ。

 頑ん張る5歳、そしてその仲間も教師も私は誇りに思う。

 集団が教える“力”を持つ。言葉を超える“力”を団体が教える。仲間が個を大きくもする。共に生活する魅力が其処に在る。

幼稚園に遅れてはいけない。

幼稚園を休んではいけない。


(平成26年度11月)


そして、あの日虎岳の若衆達が青春を(うたげ)した。大地を蹴って風も切った。
綱を掴んで親子の調和も引き寄せた。技(演技)や力を若さとエネルギーに換えた。“頑張るしかないさ”と歌うて、明日の勇気にも繋いだ。秋を“秋だ”と叫んで何の()(まど)いも無かった。秋が動いた。それ程に運動会が大空に(こだま)した。汗を刻んだ面構(つらがま)えが又一つ(たくま)しく成った。そして、その後の今も秋、天の高さに、秋の深さに、学を子等は問う。

幼稚園に遅れてはいけない。

幼稚園を休んではいけない。

おっ母様方、(よろ)しゅう頼んます。      園長